こちらでは、フランス共和国の世界遺産をご紹介しています。数ある世界遺産の中でも、特にフランスの街並みに関連する文化遺産を中心にご覧頂きたいと考えておりますので、奥深い歴史が今も息づいているフランスという国の魅力をお楽しみ頂けるのではないかと思います。
トップページでは、個別の街並み――世界遺産を見ていく前に、まずはフランスの歴史を確認して理解を深めて頂きたいと存じます。
◎フランスにま
トップページでは、個別の街並み――世界遺産を見ていく前に、まずはフランスの歴史を確認して理解を深めて頂きたいと存じます。
◎フランスにま
こちらでは、フランス共和国の世界遺産をご紹介しています。数ある世界遺産の中でも、特にフランスの街並みに関連する文化遺産を中心にご覧頂きたいと考えておりますので、奥深い歴史が今も息づいているフランスという国の魅力をお楽しみ頂けるのではないかと思います。
トップページでは、個別の街並み――世界遺産を見ていく前に、まずはフランスの歴史を確認して理解を深めて頂きたいと存じます。
◎フランスにまつわる歴史エピソード
〜フランス革命(後編)
フランスの歴史を語るにあたって、もはや外すことは許されないであろう一大テーマであるフランス革命。こちらでは、その後半についてご紹介いたします。前半にあたる部分をお読みになりたい方は「フランスの建造物をめぐる〜世界遺産旅行ガイド」で前編を公開しておりますので、先にそちらをご覧頂ければと思います。
ヴァスティーユ監獄襲撃に始まった民衆の蜂起によって、とうとう絶対王政から立憲君主政に移行したフランス王国。革命の目的は果たされたに思われましたが、実際にはまだまだ戦いの火種は残されていたのでした。
立憲君主政を革命のゴールと捉えており、これ以上の進行を望まない自由主義貴族を中心としたグループ――フイヤン派。最終的には共和政への移行を目標と掲げつつも、当面の現状維持を目指す穏健共和主義グループ――ジロンド派。そして、直ちに王権を廃止して共和制へと移行したい急進共和主義グループ――ジャコバン派。議会では、これら三つのグループが睨み合いを始めていたのです。
そして、この時にひとつの大きな出来事が、その対立を激化させてしまう要因になったのでした。その出来事とは、ミラボーという人物の死です。ミラボーは、国王からも民衆からも厚い信頼を集めていた政治家。王党派と共和派の危うい関係がどうにかこうにか保たれていたのは、ひとえにミラボーの存在あってこそだったのです。この時点で、王党派と共和派が再び激しい対立関係に陥ってしまうことは誰の目にも明らかとなってしまったのでした。
先に動いたのは、国王:ルイ16世です。革命派との仲介役であるミラボーがいない今、フランス国内に留まっては命が危ないと感じたルイ16世は、オーストリアへの脱出を図りました。オーストリアは、王妃であるマリー=アントワネットの母国。(ちなみにマリー=アントワネットは、高名なオーストリア女王:マリア=テレジアの末娘)オーストリアへ逃れることが出来れば、身の安全を保証してもらうことが出来ると考えたわけです。
しかし、この逃亡劇は失敗に終わります。オーストリア国境付近の町――ヴァレンヌで国王一家の逃亡が露見――捕まって連れ戻されてしまったのでした。
この一件で、国王一家の権威は失墜。国民を残したまま他国へ逃れようとした王に敬意を抱く者はほとんどいなくなってしまいました。結果、議会における立憲君主主義者の発言力は低下し、共和政への移行は不可避となったのです。
この状況を受けて、時のオーストリア国王:レオポルト2世も動きました。国王一家に危害を加えた場合にはフランスを武力制圧するという内容のピルニッツ宣言を行い、フランス革命派を牽制したのです。
ですが、この内政干渉が招いたのは「王政に対する限りない敵意」でした。共和派は対オーストリア開戦を強硬に主張し、フランス革命による共和政移行の完遂を熱望するようになったのです。
ルイ16世はというと、フランスが敗戦すればオーストリアによる占領下で絶対王政を復活できると目論んで、開戦に賛成する始末。僅かに残った立憲君主主義者も、オーストリアとの戦争に賛成するしかなくなったのでした。
こうして、穏健共和主義であるジロンド派を中心とするフランス立法議会の政府はオーストリアとの戦争状態に入りました。ヨーロッパにおいて絶対君主政が揺らぐことを嫌ったプロイセンがオーストリアに同調したため、フランス立法議会軍vsオーストリア・プロイセン連合軍という、一見して絶望的な戦争が始まったのです。しかも、時のオーストリア・プロイセン連合指揮官は、希代の名将と名高いブラウンシュバイク。
この時点で、フランスの勝利を予想した者が、いったい何人いたでしょうか……。実際、誰もがフランスの敗戦を予想し、フランス国内で絶対君主政を支持する王党派は活気づきました。
ですが、各国の自由主義者はフランスを見捨てませんでした。他国から続々と義勇兵が集結し、フランスの市民の連携をはじめたのです。この期に、マラーをはじめとするジャコバン派の主導者は、国王:ルイ16世が軟禁されているテュイルリーを襲撃――王権のすべてを停止して完全な監禁状態に置くことで、国内共和派を鼓舞しました。
こうして一進一退の動きを見せた革命軍と王党派の攻防は、最終決戦へと持ち込まれます。フランス革命軍とオーストリア・プロイセン連合軍が一堂に会したヴァルミーの戦いです。もちろん、兵力・物量・武装のすべてにおいてオーストリア・プロイセン連合軍が大幅に上回っているのは言うまでもありません。
結果は、なんとフランス革命軍の勝利――。
実は、ここには連合軍指揮官であるブラウンシュバイクの英断があったのです。「自由を勝ち取るために死を恐れず突っ込んでくる革命軍の士気は高く、まともに激突すれば相当数の兵士を失うことは間違いない。大打撃を受けることを厭わずに兵力を注ぎ込めば勝てる戦いであるとしても、こんなものはもはや無益な戦闘行為に過ぎない……」そう判断したブラウンシュバイクは、開戦から間もなくして、全軍の撤退を指示したのです。ちなみにプロイセン軍には、後に文豪として名を馳せることになる若き日のゲーテも従軍していました。彼もまた、今まさに自由を勝ち取らんとするフランス革命軍の士気を目の前にして、このような言葉を残しています。
「今日、そしてこの場所から、新しい世界史が始まる――」
こうして、民衆たちの願いは果たされ、旧体制――アンシャン=レジームが終焉したのです。
しかし、この後のフランスでは共和派による骨肉の主導権争いが勃発し、悪名高いロベスピエールによる恐怖政治が行われたことも決して忘れるべきではありません。人の歴史とは常に、光と闇の繰り返しなのです。それはきっと、今の時代だって何も変わってやしないのでしょう……。
以上、フランスの歴史にまつわるエピソードでした。この後のページでは、個別の世界遺産について見ていきたいと思います。
※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
wikipediaはコピーレフトという考え方を標榜しており、引用・再利用が自由です。
トップページでは、個別の街並み――世界遺産を見ていく前に、まずはフランスの歴史を確認して理解を深めて頂きたいと存じます。
◎フランスにまつわる歴史エピソード
〜フランス革命(後編)
フランスの歴史を語るにあたって、もはや外すことは許されないであろう一大テーマであるフランス革命。こちらでは、その後半についてご紹介いたします。前半にあたる部分をお読みになりたい方は「フランスの建造物をめぐる〜世界遺産旅行ガイド」で前編を公開しておりますので、先にそちらをご覧頂ければと思います。
ヴァスティーユ監獄襲撃に始まった民衆の蜂起によって、とうとう絶対王政から立憲君主政に移行したフランス王国。革命の目的は果たされたに思われましたが、実際にはまだまだ戦いの火種は残されていたのでした。
立憲君主政を革命のゴールと捉えており、これ以上の進行を望まない自由主義貴族を中心としたグループ――フイヤン派。最終的には共和政への移行を目標と掲げつつも、当面の現状維持を目指す穏健共和主義グループ――ジロンド派。そして、直ちに王権を廃止して共和制へと移行したい急進共和主義グループ――ジャコバン派。議会では、これら三つのグループが睨み合いを始めていたのです。
そして、この時にひとつの大きな出来事が、その対立を激化させてしまう要因になったのでした。その出来事とは、ミラボーという人物の死です。ミラボーは、国王からも民衆からも厚い信頼を集めていた政治家。王党派と共和派の危うい関係がどうにかこうにか保たれていたのは、ひとえにミラボーの存在あってこそだったのです。この時点で、王党派と共和派が再び激しい対立関係に陥ってしまうことは誰の目にも明らかとなってしまったのでした。
先に動いたのは、国王:ルイ16世です。革命派との仲介役であるミラボーがいない今、フランス国内に留まっては命が危ないと感じたルイ16世は、オーストリアへの脱出を図りました。オーストリアは、王妃であるマリー=アントワネットの母国。(ちなみにマリー=アントワネットは、高名なオーストリア女王:マリア=テレジアの末娘)オーストリアへ逃れることが出来れば、身の安全を保証してもらうことが出来ると考えたわけです。
しかし、この逃亡劇は失敗に終わります。オーストリア国境付近の町――ヴァレンヌで国王一家の逃亡が露見――捕まって連れ戻されてしまったのでした。
この一件で、国王一家の権威は失墜。国民を残したまま他国へ逃れようとした王に敬意を抱く者はほとんどいなくなってしまいました。結果、議会における立憲君主主義者の発言力は低下し、共和政への移行は不可避となったのです。
この状況を受けて、時のオーストリア国王:レオポルト2世も動きました。国王一家に危害を加えた場合にはフランスを武力制圧するという内容のピルニッツ宣言を行い、フランス革命派を牽制したのです。
ですが、この内政干渉が招いたのは「王政に対する限りない敵意」でした。共和派は対オーストリア開戦を強硬に主張し、フランス革命による共和政移行の完遂を熱望するようになったのです。
ルイ16世はというと、フランスが敗戦すればオーストリアによる占領下で絶対王政を復活できると目論んで、開戦に賛成する始末。僅かに残った立憲君主主義者も、オーストリアとの戦争に賛成するしかなくなったのでした。
こうして、穏健共和主義であるジロンド派を中心とするフランス立法議会の政府はオーストリアとの戦争状態に入りました。ヨーロッパにおいて絶対君主政が揺らぐことを嫌ったプロイセンがオーストリアに同調したため、フランス立法議会軍vsオーストリア・プロイセン連合軍という、一見して絶望的な戦争が始まったのです。しかも、時のオーストリア・プロイセン連合指揮官は、希代の名将と名高いブラウンシュバイク。
この時点で、フランスの勝利を予想した者が、いったい何人いたでしょうか……。実際、誰もがフランスの敗戦を予想し、フランス国内で絶対君主政を支持する王党派は活気づきました。
ですが、各国の自由主義者はフランスを見捨てませんでした。他国から続々と義勇兵が集結し、フランスの市民の連携をはじめたのです。この期に、マラーをはじめとするジャコバン派の主導者は、国王:ルイ16世が軟禁されているテュイルリーを襲撃――王権のすべてを停止して完全な監禁状態に置くことで、国内共和派を鼓舞しました。
こうして一進一退の動きを見せた革命軍と王党派の攻防は、最終決戦へと持ち込まれます。フランス革命軍とオーストリア・プロイセン連合軍が一堂に会したヴァルミーの戦いです。もちろん、兵力・物量・武装のすべてにおいてオーストリア・プロイセン連合軍が大幅に上回っているのは言うまでもありません。
結果は、なんとフランス革命軍の勝利――。
実は、ここには連合軍指揮官であるブラウンシュバイクの英断があったのです。「自由を勝ち取るために死を恐れず突っ込んでくる革命軍の士気は高く、まともに激突すれば相当数の兵士を失うことは間違いない。大打撃を受けることを厭わずに兵力を注ぎ込めば勝てる戦いであるとしても、こんなものはもはや無益な戦闘行為に過ぎない……」そう判断したブラウンシュバイクは、開戦から間もなくして、全軍の撤退を指示したのです。ちなみにプロイセン軍には、後に文豪として名を馳せることになる若き日のゲーテも従軍していました。彼もまた、今まさに自由を勝ち取らんとするフランス革命軍の士気を目の前にして、このような言葉を残しています。
「今日、そしてこの場所から、新しい世界史が始まる――」
こうして、民衆たちの願いは果たされ、旧体制――アンシャン=レジームが終焉したのです。
しかし、この後のフランスでは共和派による骨肉の主導権争いが勃発し、悪名高いロベスピエールによる恐怖政治が行われたことも決して忘れるべきではありません。人の歴史とは常に、光と闇の繰り返しなのです。それはきっと、今の時代だって何も変わってやしないのでしょう……。
以上、フランスの歴史にまつわるエピソードでした。この後のページでは、個別の世界遺産について見ていきたいと思います。
※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
wikipediaはコピーレフトという考え方を標榜しており、引用・再利用が自由です。

